8050問題を引継ぐきょうだいたちへ

これは、見えない将来への不安で押しつぶされそうになっている「私」にあてて書いている手紙です。そして、同じ思いをかかえている私の知らない「あなた」にも読んでほしいのです。

3 . それは誰の課題なの?

☆私のすべての不安は、私が全て解決しなければいけない課題ではない

課題の仕分け作業をしていきます

 

*親の課題:

どのような介護を受けたいかは親が決めること
認知機能の低下があれば支援が必要かもしれないが自己決定能力がある間に親自身が考える必要がある
ACPを含め親が明文化しておく事は親の課題

 

②将来の生活費に対する課題は、親が私の兄弟とオープンに話し合う必要のある問題である
私の考える課題ではない

    ➡️自分たちにどれだけの資産が残されているのか
生活費はどれだけかかるのか
どれくらい、今残っている資産で生活ができるのか
ライフプラン表などを活用してオープンに具体的に可視化する必要がある

 ➡️そこから先、どのようにすれば生きていけるかを考えるのは本人の課題
支援が必要であれば、誰に支援を求めるかも合わせて考える必要がある

親が生きている間にしておくことが良い

 

③彼が苦しんでいるときにプライドが邪魔をして必要な支援につなぐことができなかったのは親であり、私ではない

    ➡️そもそも当時は適切な支援の場がなかった
・社会の理解もなかった
・親の育て方の問題と捉えられていた

 ➡️親にも課題があった
・父親にはギャンブル依存があり消費者金融から多額の借金をしていた
・母親は社会交流が苦手で働いて稼ぐ事は出来なかった

・父親が作った消費者金融からの借金の取り立てに怯えたいた母の唯一の支えが宗教だった
・子供が良い子であることが母親の唯一の自慢であり、プライドであった

 

*本人の課題:

①自分の健康を管理する責任は本人にある

②実家がゴミ屋敷になるのではないかという不安は本人の課題 私の課題ではない

➡️なぜゴミが溜まるのか原因を分析
 ・ゴミの分別の仕方がわからないのか
 ・性格が細かすぎて細部にわたってゴミの分別をしなければならないと気が済まずゴミの分別が出来ないのか(0か100か思考)
・ゴミを出しに行くことができないのか
・本人にとってどこが課題となってゴミが溜まるのか細かく分析しそこに対する解決方法を探ることが必要

 

*社会の課題

①私の兄弟が不審者扱いされるかどうかは社会の理解にかかっている
生きづらさを抱えた人ちを、社会が、地域が、どのように受け入れていくのか、どのように意識を変えていくのかは、社会の課題

②近所付き合いをどこまでしなければいけないのかは、地域社会が時代に合わせて考えていくこと
個人が苦しいなら付き合いを強制する必要はない

③支援者のスキルアップと言う課題

 

*きょうだいとしての「私」の課題

①過去に彼を傷つけたかもしれないが、無知よるものであり、過去の私に完全な対応ができなかったことを理解し、過去の自分を許す

②家族として私が彼と今後どのように、どの程度関わっていくのか心づもりを考える
➡️それを決めるのは私である
・血縁だからしなければいけないと言う考え方からは自分を解放した上で、同じ生きづらさや苦労を経験したきょうだいとして、私が、心から、自発的に、どこまで彼の人生に関わっていきたいと思っているかを心づもりとして決めておく
・私はいつでも彼の味方である言う気持ちは変わらない

 

私の心づもりについては今後ゆっくり考えていこうと考えています

2.不安になったときに整理すること

☆そもそも不安はなぜ起きるのか

不安とは、自分が対処できそうにないと思えることなのではないかと考えています

対処方法がわからないことや、対処する力が不足していると感じる事に対しては、大きな不安を感じます

反面、何とかなりそうだと感じられることに対してはさほど不安を感じないのです

将来を不安に感じるのは、自分では何とかなりそうにないと感じているからなのでしょう
じゃあどうしたらいいのでしょうか
漠然とした不安を細分化してみてはどうでしょうか?

 

☆今私はどんなことが不安なの?
思いつくまま私の不安に感じている事を列挙してみます

*将来の生活費の不安(親亡き後、兄弟の生活費を私が負担しなければいけないのか)

*私の兄弟が他人に迷惑をかける不安(ゴミ屋敷になる不安、近所付き合いができない不安、兄弟が不審者扱いされる不安、兄弟が孤独死する不安)

*親の適切な介護ができないかもしれない不安

*これまで私の理解のなさから私は彼に大きな精神的苦痛を与えてきたのではなかろうか?という不安

*彼はちゃんと健康管理ができているのだろうかという不安

*彼が一番苦しんでいる時に、プライドが邪魔をして適切な支援につなぐ事が出来なかった後悔

 

以上の事は全て「私」が考えているだけの不安です

当事者関係者みんなが同じ不安を持っているとは限らないのです

という事は「私」の中の問題とも言えるのです

そう、困っているのは私なのです

家族や兄弟の問題にすり替えているだけで本当に困っているのは私だったのではないでしょうか?
他人の問題を解決したり他者を変える事はできないけれど、自分の問題であれば話は別

つまり、私の困り事は私が折り合いをつけることができるはずなのです

 

☆どうやって私の心と折り合いをつけることができるのだろうか

①そもそも、その問題は誰の課題なのかを考えてみるとどうでしょうか

*親の課題は何?

*本人の課題は何?

*社会の課題は何?

*私の課題は何?

全ての不安が、私が解決すべき課題ではないという事を知り、仕分けする事から始めましょう。

「不安な私」は、自分と他者の境界線をはっきり区別することが出来なくなっているのです

 

②そして、私の課題に対しては何ができるか、できないことは、誰の支援があればできそうかを考えていくのです

 

(次回:3  それは誰の課題なの?)

 

 

 

 

1. はじめに

これは、見えない将来への不安で押しつぶされそうになっている「私」にあてて書いている手紙です。

普段は考えないようにしながらやり過ごしている時限爆弾のようなのもへの不安が、時折大波のように押し寄せてきて焦燥感に駆られたときに、そっと読み返したいと思い綴っています。

焦燥感に駆られるままに「私のきょうだい」にとって致命的な打撃を与えかねない「善意の押し売り」を「私」がしないために、何度も読み返したいのです。

 

そして、同じ思いをかかえている私の知らない「あなた」にも読んでほしいのです。

なぜなら、きっと心の中が整理でき、不安の中で苦しんでいる「あなた」にとってのふさわしい出口が見つかると思うからです。

出口の見えない暗い部屋の中で「あなた」と「あなたのきょうだい」はどれくらいながい年月、苦しんできたのでしょうか。5年?10年?いや何十年でしょうか?

 

長い年月の間に、「私」には、身の回りの人と表面的に仲良くしながらも「わたしの家(うち)」の話題に触れないように細心の注意を払い、人と深いつながりを持つことを避ける習性がすっかり沁み付いてしまいました。

友人との何気ない会話の中でのちょっとした話題に深く傷つくことも多くありました。いつも緊張の連続でした。

わたしの人生の大半このようなものでした。

ほとんど家にいなかったギャンブル依存の父親、一人では生きていけない弱さを持ち宗教に依存した母親、そして、ひきこもった「きょうだい」、生きづらさを抱えながらもつらさを吐露できなかった「私」。

いつも我慢を強いられて生きてきた「私」には「しんどい、助けて」と声に出すという発想すらありませんでした。そして、母の弱さが「私」を「ゆがんだ家族」に縛り付けていました。ストックホルム症候群に近い心理状態だったのでしょう。

「家族」は私にとっては煩わしいものの代名詞となりました。

おそらく、「私のきょうだい」のひきこもりも、「私」の生きづらさも、根底にあるのは同じ「家族」つまり親子関係なのでしょう。

 

子は生まれる「家族」や環境を選ぶことはできません。その「家族」の中で、「普通」の感覚を習得し、親の価値観があたかも自分の価値観であるかのような錯覚を信じて成長するのです。それが正しいか間違いか周囲とずれているかなど考えもせずに、ただただ親に褒められたい一心で、その「普通」を受け入れるのです。

だんだんと成長するにつれ、自分の「家族」と周囲との乖離に気付き居心地の悪さを感じはじめ、他の「家族のかたち」と違うことに恥ずかしさを感じたり身の置き場のなさに悩むようになり、それが「生きづらさ」へとつながったのではないかと今では考えています。

血は水より濃いと言いますが、血縁関係を切るという発想すらない今の世の中ではこのゆがんだ関係から解き放たれ自由になる道はありません。少し前の私はそのように感じていました。

しかし、本当にそうなのですか?もし、私の家族のかたちが改善の余地のない状態なのであれば、断ち切るという選択もあるのではないでしょうか。

夫婦であれば離婚ができます。しかし、親・子・きょうだい であれば、一生抑圧や我慢を甘受しなければいけないのですか?

「私」や「わたしのきょうだい」は、自分の人生を生きるために生まれてきたのです。

それぞれが、自分の心地よい居場所を探し選んでもよいはずです。自分の人生を選び生きることを「血縁」に邪魔されてよいはずがありません。

家族の絆を断つという考えは世間一般にはなかなか受け入れがたいものだと思います。

しかし「絆」とは本来、家畜をつなぎ留めておく綱であり、人の心や行動を束縛すること。人情にひかれて自由に行動することの障がいとなるものです。

基本的人権が尊重される社会にあっては、家族に絆(ほだ)される必要はないのです。

 

長い年月を経て私はようやく、1人でいることの幸せと強さを手に入れました。

手に入れた、同調圧力に屈することなく自分の心地よいと感じる生活を貫く強さに、私は今、大変満足しています。

しかし、心からそのように感じることができるようになるまでには長い時間と多くの試行錯誤がありました。

今でも、時折大きな負の感情が押し寄せてきて打ちのめされそうになることがあります。

今も、一人では対処できそうになくなり専門医の助けを借りています。

今後もそういった病的な不安に押しつぶされそうになったときのために、私がこれまでどのように頭と心の中を整理していったのか、その過程や思考を、可視化しておこうと考えました。

 

(次回: 2.不安になったときに整理すること)